大人のピアノは気長に
その余波は当然ピアノの練習時間に影響し、この1週間、鍵盤に触る時間は出勤前の1日に10分ほど。
身体的負荷は想定内だったので早く寝るようにしていたのですが、どこからもらったのか胃腸炎を発症。今週は2度、夜中に嘔吐し、点滴もしてもらう有様。
体調を崩すと若いころのようにすぐには回復できないですね。「老い」は、まだ遠くにありますが、裸足で足音を立てずに、じわじわとひたひたと、ゆっくりとでも確実にわたしに近づいてきているのを感じます。
さて、1日10分の練習で何ができるか、という話です。
10分じゃ何もできないかというとそうでもない。インベンションなら通して数回は弾けます。
部分練習をじっくりとかは無理なので、弾けなくなるのを防止する、かろうじて現状を維持する程度ですが。
だけど、大人はほんとに忙しいですね。ずっとフルタイムの仕事をしながら、自分でも、よくもまあ10年もピアノを続けてきたなあと思います。
数年前に、「無謀曲を何がなんでもいついつまでに弾きたい」という感じから「何よりも手を痛めない弾き方で、弾ける曲は少なくてもいいから、時間をかけてゆっくり弾きたい」にシフトチェンジした背景には、やはり加齢がありました。
この先はきっと、「老い」の奴の足音も、ついには聞こえるようになるのでしょう。
40ちょい前にピアノを始めたわたしは、50代になったら成長曲線は下がるだろうから40代のうちにできるだけ基礎練習をしようと思いました。そうしてもうすぐ50歳。今後は、今までのようには成長しないことは、容易に予想できます。
でもそれでも、いいのです。
1週間ぶりに弾いたブラームス118-2、出だしの内声がきれいだ~~~。なぜこれを、全部の音を出して弾くときにちゃんと聴かなかったんだろうと思うほど。
インベンション15番、歌えるようにならなくて、全然進展しなくてときには落ち込むけど、そんな小さな感動を得られるのって、やっぱり幸せ。
やっぱり幸せと思えたのは、とある人の言葉があったからです。その言葉はすとんとわたしの胸に落ちたので、以下にシェアしたいと思います。
ピアノは大変難しく、先生たちは子供のころから多くのことを犠牲にして練習やレッスンしてきてる。何でもすぐにはできないということを理解する。一生かけてもできないことは多い、残酷だけどそれが現実。望んでもできないことはたくさんあるけど、それを嘆くより、できることから頑張ってください。悩むことも大切。うまくなる人には共通の性格があって、気長。自分にできることからコツコツ頑張り、できなくてもイライラしない。それを継続する静かな情熱がある。
ピアノの練習は基本ひとり。大きなリュックが重くて、ひとりで山登り、きついけど。
途中で泣きそうになる時もあるし、ふもとに帰ってあったかいお風呂に入ってだらだらと横になりたいときもあるけど。
来た道を振り返ってみると、結構頑張って登ったなあと。今さら戻るのももったいないし、何より先にはもっときれいな花や景色があるのが分かってる。緩やかな勾配のルートに変更してもいいんだもの。歩いていこう。
前みたいにはどんどん歩けないけど、わたしを追い越していく人は、同じように重いリュックを背負って、こんにちはと笑顔で挨拶してくれる。お先にどうぞ、と、「こんにちは」とわたしも笑顔で挨拶。
自分のことばかり考えがちだけど、よく見渡せば、山には人がたくさん。あの人もこの人も、ほんとは疲れたり落ち込んだりするのかなあ。
ズボンのポケットには「頑張って」のお手紙。力をくれてありがとう。ご恩を、返さなくちゃね。
あれ?この山、「頂上きれいだったよ!」と言って、下りていく人がいないなあ。
うんと歩いたら、コテージで温泉にも入れるかな。さっき会った人と一緒にご飯も食べられるかも。充電したらまたみんなひとりで歩き出す。
うん、わたしは自分のサークルを、そんな場所にしたいなあ。
大人のピアノが、大好きです。