「あるもの」に感謝。
休みに出かける用事を入れすぎると疲れちゃうので、コロナ前はいつもセーブしていたけど(お財布にも優しい)、
コロナ後はほとんどがこんな感じ。あとは子供と買い物にでかけるぐらい。
ピアノは、2020年2月が最後の本番になりました。最近は、ピアノの集まりに行きたくて行きたくて本番に出たくて、夢にみそうです。
医療者じゃなかったらきっと練習会も本番も参加できただろうし、主催の方も中止しなかったと思うので、やりきれない。
ストレスが恒常的にかかってるのはきっとみんな同じなはず!「ないもの」を嘆いても仕方がない、「あるもの」に感謝しよう!と、自分に言い聞かせる日々。
それにオンライン会がある!今はそれが唯一のわたしのピアノの楽しい集まり。心からありがたいです。
「ないもの」といえば・・・・
シンフォニア3番は、シンフォニアで6曲目ですが、今までで一番手に厳しくてめまいがしそうです。先日のレッスンでは、どーーしてもレガートにできないところがありました。
先生は同じ指使いでレガートにできるんですよ。手の大きさはわたしと変わらないのに、先生の手は開くし柔軟性があるのです。
だからそれをわたしに習得させようとレッスンで時間を費やしてくれたけど、いくらやってもできない上に、手根管症候群のために手首の上下運動はなるべく避けた方がいい事情もあって、「ペダルでごまかす」ことになりました。
そしてそのときに先生から、この先の選曲は手のことを考えて選んだ方がいいと言われました。
これが、地味にショックだったんです。
今まで、あきらめずに頑張って無謀な曲をたくさん弾いてきました。
幻想即興曲のときは左手が腱鞘炎になってしまい、悔しく悲しかったけど、打鍵の仕方をいちから見直して、今では痛くならないで弾けます。
なのに、今度は右手の手根管症候群です。投薬でいちど症状が消失したけど、またしびれるようになりました。薬は、おそらく一生飲むことになります。症状が悪化し日常生活に支障が出たら手術です。しびれてるだけで、動きには制限がないのですが、これはもう本人のせいではないだけに悔しい。
色々考えた末、シンフォニアは続けることにしました。
ペダルを使わずにレガートにできる人もいる。
保持音を楽譜の通りに伸ばせる人も。
こんなにあれこれと苦労して工夫しなくても弾ける人たち。
でも、ピアノに限らず、頑張っても頑張っても、それでもどうしてもできないことはある。
一生懸命寝ないで勉強して試験に落ちた人は、問題を解けない人はダメなのか?
ダメじゃないですよね。
努力が全部結果になるわけがない。
たとえばわたしが経済的に大学進学をあきらめたように、物理的にできないこともある。
なら、できる範囲でやろう。曲も、先生に相談しながら選ぼう。その曲の中でどうしてもできないところは、音をはぶいたりなど「ずる」をしよう。幸い自分はアマチュアなんだ。アマチュアでよかった。でもアマチュアだからって汚く弾いてもいいってことではない、できる限りの努力はしよう。
今やっているアルペジオB durは幸い手首の上下はありません。だから練習できます!
シューベルトの即興曲90-1は、部分練習の積み重ね期。
メトロノームのねじをひとつひとつあげていきます。
まるっきりツェルニーの練習と変わりません。こういうときに、ああツェルニーをやってよかった、とつくづく思います。
小さな小さな部品を、なんてかわいいんだろう、なんてきれいなんだろう、と感嘆しながら少しずつ集めて、いつかは曲にしていこうと思います。
ゆっくりゆっくり。
お友達のくれたハガキ。

昨年からずっと、ピアノじゃないことで闇の中にいました。
頑張って地底から這い上がり、上に向かうトンネルの中で歩いてるときに、今度はピアノで落ち込みました。
足が痛くてもそれでも信じた方向に向かって歩いても、光が見えないどころか、トンネルの向こうにはもしかしたら一生行けないんじゃないだろうかと軽い絶望に襲われました。
でも、トンネルを出た先にある景色が、思いえがいていたものではないとしても、それでも進むことに決めたら、
ずっと先に、少し光が見えてきた気分。
先生、師匠、ピアともさん、家族・・・・・
たくさんのひとに支えられて、その光を見ていることに気がつき、なんだか泣きそうです。
自分の心は自分で決める。
悲しみも怒りも作るのは自分。
なら、光にするのも自分。
感謝。