人は寂しすぎると・・
夫は毎日深夜に帰宅。
子供の1人は家を出ており不在。
1人は同居だけど遅く来た反抗期で親と口をきかない。
ねこのチョコは家を出て帰ってこない。
自分の仕事は訪問看護を始めたばかり、なのに今と環境が違いサポート体制が薄く手探り状態。
疲れ果てて帰り、毎日1人で夕飯を食べていました。
そんなある日、訪問の合間に家に寄り、文鳥のピースに「ピースただいま」と言うと、ピースは、かごの中で冷たくなっていました。
朝も、夜も、帰宅したときも、毎日毎日、「おはよう」「おやすみ」と言ってきました。いつもかわいい顔で「ピッ」と返事をしたのに、もう目を開けず動きませんでした。
仕事の合間に、家の中でも、数ヶ月、毎日ピースを思い出して泣きました。
そしてある日、「もう寂しくて無理~!」とわあわあ泣いてしまい、驚いた夫からまたねこを飼う許可が出て、ねこのハチが来たのです。
明るいハチは一気に空気を変え、家に帰るのが楽しみになりました。
それから少しして、もう死んだと思っていたチョコも戻ってきました。
チョコはあのとき反抗期だった子供と一緒に今は別のところで暮らしていて、
あのときに家にいなかった子供と夫と3人暮らしとなり、今は2人か3人で夕飯を食べていますが、
ピースのことも、ハチがくるまでのあの時期のことも、忘れたことはありません。
ピースが死ぬまで、自分がものすごい寂しがり屋だということに気がつきませんでした。
実は、シューベルトの即興曲90-1を弾き始めるとき、ピースが死んでいるのを発見した時のことを考えています。
「寂しいよ、寂しいよ」って言えたらいいのに言えなくて、全然違うことを言ったりやったりしてしまった、あの時期・・。
シューベルト即興曲90-1は、前にも書いたように(そのときの記事)、わたしにとっては突然死んだ恋人のことを思って青年が嘆き悲しむ歌で、冒頭のソは「死」です。
男性の思いはものすごく直球で、少年ぽさすら感じます。
そんな男性が心配なのか女性はそばにいます。でも、男性には聞こえないし見えません。
女性は、男性には生きていて欲しい。だから本当は、いっときだけそばにいる予定でした。ずっとそばにいたら、男性がどうなるか、分かっているからです。
でも、男性の強い思いに女性は・・・そして男性は・・・
194小節の左手のアクセントのついたソは冒頭のソのかけら。
悲しい切ないけど美しい愛の物語です。
後を追う死ですけど、こんなにも穏やかです。最後にはソは、ドミソの和音の中に包まれて優しく終わります。
シューベルトは、なぜ、こんなにも寂しく美しい曲を書けるのでしょうね?
辛い思いをしたからでしょうか。
人間の弱さや醜さも、優しさも強さも、内包している人だったのかなあ。
そして、本当は、とっても寂しがり屋だったんじゃないかなあ。
人は、寂しすぎると死んでしまうこともあるかもしれません。
「想い」を、実際に音に出来たらどんなにいいでしょう。
この曲で12月にピティナステップに出ることにしました。
検証と反省の材料として。
何が起こるか分からないのが本番、詰める練習は続きます。